
菱沼俊哉
横浜市立大学 医学部医学科 5年
ACPに参加したきっかけ
海外留学に向けて、学生の間しかできない特別な経験を積みたい。また、委員という立場を通して今までにない学びの場を創造したい。
米国内科学会日本支部学生委員会 ACP Japan Chapter Student Commitee
「感染症と医学教育 日米の経験から」
松尾 貴公先生
今回は、長崎大学を卒業後、聖路加国際病院、テキサス大学ヒューストン校/MDアンダーソンがんセンターでのご勤務を経て、現在はメイヨークリニック整形外科感染症フェロー、Assistant Professorとしてご活躍されている松尾貴公先生にインタビューさせていただきました。学生時代のヒッチハイクやさまざまな国際活動のお話から、日本と米国で感染症内科医として働かれたご経験まで、多岐にわたる貴重なお話を伺うことができました。
1.これまでの経歴
〜先生のこれまでのご経歴について教えてください。〜
私は長崎県の諫早市というところで生まれて、その後、父の転勤で県内の大村市、五島列島、佐世保市、長崎市で転々と幼少時代を過ごし、その後は地元の長崎大学医学部に進学しました。大学では、小学校時代から続けていたサッカーにどっぷり浸かった6年間でした。周囲の仲間に恵まれ、九州・山口医科体育大会4連覇、西医体準優勝、天皇杯大学予選で長崎大学本学サッカー部に勝利し優勝し本県予選に出場、など喜ばしい瞬間を仲間と共に分かち合いました。また、5年生の時に趣味として好きだったカメラをきっかけに写真部を立ち上げ、地元の新しくなった大学病院での写真設置を企画したり、県内の個展に参加したりしました。趣味は旅行やカメラ、ヒッチハイクで、西医体の帰りは必ずヒッチハイクで長崎まで帰るということを、6年目のマッチングの直前までしていました。本当にかけがえのない仲間とともに、楽しい時間を過ごしたのを覚えています。その後、2011年に長崎大学の医学部を卒業し、東京の聖路加国際病院で初期研修と後期研修、その後2014年に内科のチーフレジデントを経験した後に、感染症のフェローシップを2年間、スタッフとして2年半、合計10年間聖路加国際病院に勤務しました。その後、上司の手厚いサポートのおかげで以前から興味のあった臨床留学の機会を得ることができ、2021年にテキサス大学のヒューストン校/MDアンダーソンがんセンターでの2年間の感染症フェローシップで、一般感染症のみならず、特にがんに関連した免疫不全の感染症を学びました。2年目ではチーフフェローを務めさせていただき、米国での学生や研修医の教育、マネジメントについて学び、さらに1年間、アドバンストフェローシップという形で上記の領域の臨床・研究を通してさらなる研鑽を積みました。2024年7月からは、メイヨークリニックの整形外科感染症フェローシップに進み、整形外科領域、骨関節感染症に特化した1年間トレーニングを行っています。これまで自分が大事にしてきたこととしては、目の前の患者さんの診療に全力を注ぐということはもちろんですが、教育という観点から、自分が学んだことや教わったことをできるだけ周囲に共有・還元すること、また、人が学びにくいことを自分なりに咀嚼しできる限り分かりやすく人に伝える、ということでした。その他の活動としては、仲間と共に日本のチーフレジデント協会というものを立ち上げたり、ACPのPhysicians’ Well-being Committee(PWC)の委員として、医師のバーンアウトやウェルビーイングを考えたりする活動も行ってきました。
2.“旅と英語”とアドバイスを受けた学生時代
〜学生時代から留学については考えていましたか?〜
以前から海外に対する憧れや興味はありました。学生時代は国際保健や熱帯医学に興味があり、途上国での感染症に対する学問的興味もありました。オランダにホームステイしてライデン大学の学生と交流した際に彼らの世界問題に対するそれぞれ明確な意見と議論できる能力に圧倒されたこと、ポーランドのアウシュビッツ収容所を個人的に訪ねた際にはそれまで何となく耳で聞いたり学校で学んだりしてきたことと実際の現場の雰囲気や様子が予想を超えるものだった経験は今でも忘れません。6年生の時のドイツのビュルツブルグ大学の4週間、イギリスのリバプール大学での1週間の臨床実習から日本と世界の医療事情の共通点や相違点などを学ぶ機会を得ることができたこと、また、スイスのジュネーブで当時WHOに勤務していた長崎大学の山下俊一先生の下を訪れる機会を得て、グローバルな視点を 常に持ちながらローカルにしっかり従事することの大切さを学んだことも大きな経験でした。また、インドのマザーテレサやミャンマーのジャパンハートでのボランティアにも時間を見つけて参加しました。米国での臨床留学に関しては、学生時代にはUSMLEの勉強会に参加していましたが、実際には卒後6,7年目から本格的にUSMLEの取得を目指し、卒後10年目にECFMGを取得、卒後11年目に渡米しました。
学生時代を振り返って、やっておいて良かった事、やっておけば良かった事はありますか?
学生時代、もっと色々な経験をしたいという思いはありましたが、自分なりに様々なことに全力で挑戦したいという思いで6年間をみっちり過ごすことができたため、全く後悔はありません。先に述べたようにサッカーに全力を注ぎながら、私自身も4,5年生の時に、学生時代に何をすべきか?について同じように悩んでいました。そこで実際に、人生経験の豊富な上の先生に直接聞いてみようと思い5年生の病院実習で週の最後の振り返りの時間に必ずこの質問を指導医の先生に聞くようにしました。そうすると予想外にも、”旅と英語”だと、10人中8人くらいが口を揃えて答えていたのを今でも覚えています。そこで、時間を見つけては格安航空券を買って海外の旅をしてみたり、先に述べたように国内でヒッチハイクをしてみたり、限られた時間の中でも思い切り飛び出してみるということをキーワードにしました。海外に飛び出してみると、今まで知らなかった世界観や文化、人々、考えもしなかったような多くの問題があることを知りました。また、医師になると長期の休暇を取ることができないというアドバイスもいただいていたため、その他にも仲間と共にできる限り多くの旅を経験し学生時代を悔いなく過ごしました。
3. 初期研修について
研修先を悩んでいる学生も多いですが、先生はどのように研修病院を選びましたか?
私は4年生の夏に仲のよい同級生に誘われて、福岡の飯塚病院に行き、そこで大きな衝撃を受けました。研修医1年目の先生が学生に教え、さらに上の先生が1年目に教える屋根瓦式の教育と、自分が勉強したことをすぐ誰かに伝えたいという教育のシェアの文化を知って、色々な病院を見てみたいと思いました。その後、北は北海道から南は沖縄まで合計23ヶ所の病院見学を行いました。その中である病院の研修医の先生から、同期とうまく高め合えるような集団にいる方が自分を高めることができるという言葉を聞いて、そういった視点でいろんな病院を見て見学しました。最後に聖路加国際病院を選んだのは、その時の1,2年目の先生の学ぶことに対する意欲と雰囲気の良さが印象的だったからです。どの病院を選ぶかには正解はないということ、またどの病院に行っても与えられた環境において全力で駆け抜けるということが必要ということを病院見学で教わりました。
その後、2年間の初期研修では、ロールモデルとなる多くの指導医のもと、また一生の宝となるメンターと同期に恵まれ、非常に忙しくもとても充実した研修医生活を送ることができました。それぞれ異なる背景や経歴を持つ先輩・同期・後輩に囲まれ、身近な仲間から刺激を受けることが自分にとっていかに重要な意味を持つかを肌で感じることができました。とくにメンターの存在は、自分にとって短期的なアドバイスのみならず中・長期的にわたって方向性を示し、動機づけを与えてくれるという点、そして仕事だけでなく私生活も含めた人生における自分の考え方や在り方に気づきを与えてくれる点でかけがえのない存在でした。聖路加国際病院での初期研修、そしてその後の専門研修が自分の人生の中でターニングポイントになったことは間違いありません。


↑聖路加国際病院の初期研修医の同期と共に
↑聖路加国際病院の後輩たちと共に
感染症内科医として留学するきっかけは何でしたか?
まず、感染症内科を目指した理由としては、一つに15歳の時に化膿性椎体炎に感染し、患者として地元の長崎大学病院に3週間ほど入院したことがあります。その時は医師ではなく教師になりたいと思っていましたが、自分の主治医の先生、医療スタッフの皆さんが必死に自分を助けようとしてくれたことは、医師を志すきっかけとなりました。小児科・救急・外科など様々な診療科に進みたいと思う時期もそれぞれありましたが、最終的には、この自身の患者としての経験に加え、学問としての興味深さ、また教育が好きだったことから、診療を横断的にできる感染症科を選びました。
留学を志した理由としては、10年目以降で留学するというのは珍しい方ですが、日本での自分自身の臨床感染症の診療の経験をさらに増やしたい、米国の感染症診療における回診やカンファレンス、ベッドサイド教育を含めたフェロー・レジデント・医学生への卒前・卒後教育を体験したいという思いが主でした。日本国内において、アメリカに留学後に日本で活躍されている先輩方が多く活躍されているのを見て、そのような先生方がどのような教育を受けてきたのかを見てみたいという思いがありました。特に、卒後4年目の時に、テキサス州ヒューストンでの臨床留学から帰ってきた聖路加国際病院の上司と出会った際には、知識と経験の幅の広さに圧倒され、目から鱗だったのを覚えています。
4.感染症科と医学教育

↑聖路加国際病院の感染症科メンバーと共に
人生の中でどの ようなことにプライオリティを置き、大切にされていますか?
いつも自分の中で問い続けていますが、やはり自分がやりがいや楽しみを感じて、情熱を傾けられるかということを大切にしています。自分が目の前のことを一生懸命やること、それを深めていくことが患者さんに少しでも貢献できるのではないかと感じています。よく国内外のメンターから言われるのが、”患者さんによい医療を提供するためには、まずは自分自身が幸せにならないといけない”ということです。一度きりの人生の中で、目の前のことに丁寧にかつ全力を注ぐことは大事にしながら、その中でやりがいや楽しみを見つけることを常に大事にしています。また、もちろん楽しいことばかり、うまくいくことばかりではないのですが、大変なことがあってもいかにポジティブに物事を捉えるか、失敗から次にいかすことができるかを考えるようにしています。
5. 日米で感染症内科医として働いた経験から
感染症内科医として日米で働かれた経験から、医療現場やトレーニングの違いについて教えていただけますか?
まずは感染症領域に関しては、10年前やそれ以前と比べると、日本とアメリカの違いは少なくなってきているように感じます。各疾患に対する診断や治療はガイドラインや診療指針などで標準化が図られていることはもちろんですが、日本での諸先輩方による感染症教育の普及により感染症科が存在しなくても様々なリソースで日本全国において感染症が学べる環境にあるといえます。一般的にアメリカでは入院病棟の担当医(指導医)が1週間や2週間で交代になることは稀ではありません。したがって、日本の多くの病院で採用されている主治医制の良し悪しを考える機会がよくあります。1施設の指導医の数が日本と比較して多い場合が多いため、トレーニングの観点からより多くの指導医のやり方を学ぶことができるという点、多くの目により様々な角度から患者さんにアプローチすることは良いと思う反面、継続的なフォローや診療の一貫性という意味で日本の方が良いと思う場面もあります。
また、アメリカの特徴としては、フェローシップを中心とした専門的なトレーニングにより、自分の興味のある分野を短期間で集中的に学びやすいというのも特徴です。現在所属するメイヨークリニックはそれぞれの専門医取得のために必要な一般的なフェローシップに加えて、合計約80ものsubspecialtyのフェローシップが存在します。それぞれのその後キャリアのニーズに合わせて、臨床・研究共に時間をかけることができます。その他、アメリカでは保険制度の影響により薬の選択や診療内容に制約が生じることがあること、また日本と比較して患者さんの国籍や人種、社会背景、教育や生活水準の格差などの幅が大きいことは日本とアメリカの大きな違いだといえます。
臨床医としてフェローシップで働く中で、大変だったことやどのように乗り越えられたかについて教えてください。
ニューヨーフェローシップ中には多くの苦労がありました。一つは、患者さんとのやりとりにおける言語や文化の壁です。特に英語がネイティブではない私は、患者さんとのコミュニケーションにおいて伝わりにくい、聞き取れないといった場面が度々ありました。特にパンデミック時の電話での定期外来のフォローアップやCOVID-19陽性患者とのタブレット端末でのリモート診療は困難でした。時間と経験を増すにつれその頻度は少なくなってきましたが、言語の壁は常に抱えてきました。しかし、周囲には実に多くの仲間が同じように英語を母国語としないにも関わらず、アメリカで生き残っていくために努力する姿を目にするにつけ、自分も日々前に進まなければという気持ちを持つことができました。もちろんネイティブのような発音で問題なく英語を話せるに越したことはありませんが、言語はあくまで手段であり、それ以上に患者さんに親切で真摯な態度を見せることが重要だということを多くの米国でのメンターに教わりました。当たり前のことですが、日々の診療で忘れそうになる前に自分の中で肝に命じています。これは患者さんと信頼関係を築く上で大切な要素であり、結果的に多くの困難を乗り越える助けとなりました。

↑MDアンダーソンがんセンターでの感染症フェローシップ修了時の最終プレゼンテーションにて
臨床現場で英語での会話に慣れるにはどれくらいの期間が必要とお考えですか?
習得の期間には個人差がありますが、重要なのは継続的な努力です。日々のプレゼンテーションやカンファレンスでの医学英語は、繰り返し練習を重ねることで自然とある程度対応できるようになりますが、日常会話や医学以外の分野の会話の方が苦労するケースも多いです。約4年経過してもある程度のレベルに到達したという実感は湧かず、今後も常に同じような感覚なのだと思います。したがって、自分の中で継続していることとしては、日常会話、プレゼンテーション、カルテ上の表現など場面を問わず、新しく覚えた表現を記録していくということです。上達できたかは別として、継続・習慣化することで小さな自信につながるきっかけとなります。「英語を始めるのにもう遅いのではないか」と自分も思っていましたし、周囲からもよくそのような声を聞いていましたが、何歳から始めても遅いということはないと思います。
日本とアメリカの医学教育の違いについて教えてください。
個人的には格段に大きな違いはないと思っていますが、医学教育の質の維持・向上のための取り組みやシステムの標準化、評価の位置付けなどは両方の教育現場を経験してやや異なる印象を受けます。例えば、指導医の評価システムに関して、日本でも取り入れられている病院が増えていますが、ローテーションした研修医が評価を受けるのみならず、勤務した指導医も逆に研修医やフェローから評価を受け、定期的にフィードバックが行われます。また、教育レクチャーの質も評価され、一定の評価が得られない場合には次年度に継続できないなどのプログラムも多く存在します。優れた指導医が表彰される文化は米国の多くの施設で非常に盛んに行われています。

↑メイヨークリニックでの感染症フェロー同期と共に
6.終わりに
将来感染症内科 や海外で働くことを目指す方へアドバイスやメッセージをお願いします。
感染症科に限らず、自分の興味がある学問をとにかく突き詰めるのは大事だと思います。医師のキャリアは以前と比べて選択の幅が大幅に広がりました。また、医師になって学生時代と異なる診療科や進路を選ぶことも稀ではありません。それぞれの時代の変化、自分の考え方や価値観の変化に応じて柔軟にキャリアを選択していくことが重要だと思います。そのためには、アンテナをはって自ら能動的に情報を収集すること、そして自分の目標や夢を周囲に話すことが大切だと思っています。その結果、自分が予想していなかった機会に恵まれたり、周囲がつないでくれたりするチャンスが生まれることがあります。「Will: 自分が誰に対して何をやりたいのか」、「Being: 自分はどうありたいのか」、「Value: 自分の強みは何か」という3つの軸もキャリアを選択する際に参考になる要素です。学生の間に、さまざまな分野の人になぜそのキャリアを選択したかを聞いてみることも選択の軸を知る上で有用です。米国留学に関しては、あくまで一つの選択肢としてですが、それまでと違った価値観や考え方に触れる機会ができること、世界の広さを体感することができるということ、また日本の良さについて知ることができるということから、短期間でも経験してみることをお勧めします。皆さんの今後の活躍を心より応援しています。
編集後記
学生時代のヒッチハイクや病院見学のお話から、日本と米国で感染症内科として働かれたご経験まで、多岐にわたるお話を伺うことができ大変勉強になりました。特に、"言語はあくまで手段であり、それ以上に患者さんに親切で真摯な態度を見せることが重要だ"というお話から、どんな環境においても患者さんを第一に考える先生の姿が印象的でした。また、お話の中から教育や医師の働き方に対する先生の強い思いを感じ、キャリアインタビューという枠を超えて、先生の医師としての生き様に強く感銘を受けました。
松尾先生、インタビューにご協力いただき誠に ありがとうございました。
筑波大学医学類 岡村結
岡山大学医学部 寺島美優